【連載】教科書では学べない?!すすきの遊郭の歴史 #1




札幌の歓楽街と言えば…  「薄野(すすきの)」

 

居酒屋・バー・ラーメン店などが立ち並ぶこのエリアは、夕方から夜、そして朝まで賑わっています。

 

歓楽街としてのイメージが強い薄野には、意外にも古くて大きなお寺が沢山あり、そこから歴史を遡ってみると、今まで語られる事が少なかった札幌や北海道の民衆史が見えてきます。

 

そこで北海道・札幌の歴史について、様々な話題を取り上げて連載していきたいと思います。

 

 

 

今回はそんな 薄野の遊郭の歴史 について。

 

 

薄野に遊郭が作られた理由

 

江戸時代終わりごろから明治時代初期にかけて、大友亀太郎という相模国(現在の神奈川県出身)の幕臣が札幌を開拓するために尽力しました。

 

しかし戊辰戦争が起きて幕府に代わって明治政府に。

 

武士という身分がなくなり、失業した者や、家を告げない次男三男、囚人たちが開拓使として北海道を開拓していきます。

ある意味移民政策とも言えます。

しかし雪国北海道です。その労働環境は過酷で逃げ出す者も多かったと言います。

 

その労働者たちを引き止めるために、明治4年  薄野に遊郭が作られました。

現在でいう駅前通りを挟み、南4条から南6条にかけてのあたりです。

 

 

クラーク博士で有名な北海道大学の演舞場(現在の札幌時計台のところ)が建てられたのは明治11年。

 

つまり演舞場よりも先に、薄野の遊郭ができたのです。

 

 

遊郭で働く遊女たち

 

江戸時代までの遊郭は大名みたいな富裕層が行く場所でしたが、明治以降は労働者・作業員たちが行く場所となりそこで働く者や環境はすさんでした。

 

 

借金があるために売られた女の子や、お金を稼ぐために自ら働く女の子。

 

もし人気になれたら花魁として華々しく浮世絵に書いてもらえる。

 

そんな希望もありますが、花魁というと現代でいうアイドルのような存在で誰もが辿り着けるものではありませんでした。

 

昭和57年、北海道博覧会が行われるということで鉄道が敷かれましたが、遊郭は避けて建設されました。

 

川をひく際にも遊郭は通りません。

 

 

遊女が遊郭から出る唯一の方法は嫁として買われること。

 

 

そんな環境で生きていた遊女たちの中には、梅毒や鉛中毒などに苦しむ人も少なくなかったそうです。

もし病気にかかったとしてもお金のない家族は引き取ることなどできません。

しかもそんな彼女たちを寝かせるスペースやご飯ももったいないという理由で、蓑にくるまれて捨てられたりもしていたそうです。

 

出典「Bocket ボケット Season.4 2017」




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